鳥取県教育センターホームページのトップページはこちらをクリックしてください
                                            交通アクセスのページはこちらをクリックしてください お問い合わせのページはこちらをクリックしてください
 
トップページ > 傳承の部屋 

やさしいブラウザ(Easy Web Browsing)のホームページ閲覧支援機能をご使用になる場合は、下のアイコンをクリックしてください。
やさしいブラウザについての詳細はこちら
やさしいブラウザ・クラウド版はこちらからご利用ください
 

ようこそ

1292975人目
メニュー
センター概要所長あいさつ傳承の部屋最新情報&ニュース教職員研修出かけるセンター(指導主事派遣)土曜自主セミナーとっとり未来教師セミナー学校教育支援教育相談情報教育入札情報その他教育環境課のページへリンク

Get Acrobat Reader ダウンロードページ 

PDFを閲覧するにはAdobe Readerが必要です。

 

新コーナー開設!!「傳承の部屋」

 センターだよりに掲載していた「傳承の部屋」です。ぜひ、御一読ください。
 

同僚と子どもに救われる

 全国中学校国語教育研究大会鳥取大会で授業したのは、もう20年以上も前のことになる。教師人生を通して一回巡り合えるかどうかという機会を与えていただき、たくさんのことを学んだ。中でも特に、「指導案でトコトン煮詰まる」「最後は子どもたちに救われる」という二つを経験したことは、私にとって大きな意味を持つものとなった。
 大会の4カ月前から教材を決め、教材研究と指導案作りを始めた。毎日、教材文とにらめっこしながら指導案を書いていった。ところが、いくら教材研究をして指導案を修正して書き直しても、何だかスッキリしないのである。指導案は、既に10回以上書き直し、プレ授業も3回行っている。にもかかわらず「何かしっくりこない」「何かが足りない」のだ。それまでいろいろな研究授業を経験し、「どうにかなるさ」と甘く考えでいた私は、この時初めて「指導案で完全に煮詰まってしまった」のであった。
 悶々とした日々を送っていたある日、その日は日曜日で、私は部活もあって朝から職員室で指導案とにらめっこしていた。そこへやってきたのは、同じ学年に所属する先輩の体育科の女先生と理科を担当している講師の若い女先生だった。指導案で煮詰まっていることを説明すると、二人は、「じゃあ、生徒役になるから、ここで授業してみたら…」と言ってくれた。国語科と全く違う教科の二人の先生を相手に、日曜日の朝の職員室で授業をすることになった。授業をする中で二人は、私の発問に対して素朴な疑問をたくさんつぶやいてくれた。そのつぶやきを指導案の中にメモしていった。そして、次の瞬間、「あっ、これだ!」と閃いたのだ。それは、今までに体験したことのなかった感覚だった。私は、指導案を大幅に書き直した。そして、当日は自信を持って授業ができると、その時、確信することができた。この経験から私は「分からなくなったら、専門外の人に聞いてみる」という、貴重な教訓を得たのだった。
 大会前日の放課後、私は授業するクラス(その年、私は学級担任がなかった)の生徒と共に、研究授業の会場となる附属中学校を訪れた。これには、初めての場所で生徒が緊張しないように、少し慣れさせておきたいという主催者側の意図があった。授業する教室に入らせてもらって一通り確かめた後、さあ帰ろうという時に、一人の生徒が「先生、ここで合唱してもいいですか?」と聞いてきた。子ども達は文化祭で歌うはずの合唱曲を歌った。その日、全校遠足で生徒がいないはずの教室から歌が聞こえてきたということで、附属中学校の職員室から何人かの先生が慌てて降りてこられた。
 当日、私は朝から会場入りしていた。自分の授業のことで頭がいっぱいで、全体会の大会基調提案を聞く心の余裕もなく、授業者控え室でうろうろしていた。そんな私に役員の方が「生徒が到着しましたよ」と教えてくださった。私は、子ども達の控え室に行った。ドアを開けると子ども達は「先生、緊張しとるだろう?」「大丈夫だけぇ、がんばるけぇ」とピースサインをしてくれた。その時、私の肩から余計な力が抜けた。「そっか、自分は、見に来る全国の先生たちのために授業をするのではなく、目の前の子ども達のために授業をするんだ」
 授業はいつもと同じで、大したものではなかったと思う。でも、この授業で私は、「子ども達の素晴らしさと優しさ」「最後に子ども達に救われる教師としての自分」を知ることができたのだった。
所長 小林 傳
 

「おひとりさま」文化       

 から十年前、民放のテレビドラマで「おひとりさま」というのがあった。そのドラマは、観月ありさ演じる主人公が、飲食店の店員に「お一人様ですか?」と聞かれる度に、「で、何が悪いのよ!」とお決まりのパターンで応じるラブコメディーであった。このドラマを一つのきっかけとして、「おひとりさま」という言葉自体も、ある意味で広く認知されるようになっていった。

 今日、ネット上でこれをキーワードに検索すると、「お一人様ツアー」「お一人様老後」「お一人様ブログ」などが引っ掛かり、実に様々な広がりを見せているのがよく分かる。良い悪いということではなく、「おひとりさま」は、もはや一つの文化として確実に存在しているのだ。

 さて、この「おひとりさま」に関連しては、「お一人様〇〇」という言葉ではないが、「ヒトカラ」と「ぼっち席」などというものも存在している。「ヒトカラ」とは、「一人カラオケ」の略で、カラオケを一人だけで楽しむことや一人でカラオケの練習をすることを指す俗語であり、歌唱の練習やストレス発散を目的として一人でカラオケを楽しむ人が増えていることを物語っている。一方、「ぼっち席」は、食事をするテーブルに衝立を立て、人目を気にせず一人で食べられるようにした席で、「一人ぼっち」のための席のことである。今から6年前、京都大学の学食に「ぼっち席」ができたことが新聞に掲載され、当時ちょっとした話題となった。このような「ヒトカラ」や「ぼっち席」の出現の背景に、一人での食事や余暇などを楽しむ、いわゆる「おひとりさま」文化の広がりがあるのは、疑う余地のないことだろう。

 「ぼっち席」以前には、「便所飯」というのが話題となったことがあった。「リア充」学生の集団に入ることを苦手とする「オタ充」学生の一部は、ぽつんと一人食事をすることになる。そして、一人で食事をする姿を人から見られるのが辛いと、空いた講義室に弁当を持ち込み、果ては便所を昼食場所に選択するという現象が起こっていたのだった。しかし、この「便所飯」は、世間一般に広がりを見せることなく、次第に話題されることもなくなっていったのだが、それとは対照的に「ぼっち席」の方は、徐々に市民権を拡大していくことになったのである。例えば、カウンター席が衝立で仕切られているラーメン店や個室の焼肉店などの増加が、そのことを象徴している。

 「おひとりさま」だろうが、どうだろうが、食事のスタイルの選択は個人の勝手である。しかし、どうしても釈然としないのは、「おひとりさま」を選択したはずのその人たちが、当たり前のようにケータイ・スマホを手に誰かとやり取りしながら食事している光景を見かけることである。その度に私は、「これって、どういうこと?」と思ってしまうのである。

所長 小林 傳