鳥取県道徳教育研究会 

鳥取県道徳教育研究会のホームページへようこそ!!
本研究会は鳥取県の道徳教育の発展充実のために昭和61年に設立されました。
毎年調査官や著名な大学の先生等をお迎えし、これまでに30回の研究大会を開催してきました。
 

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師道塾について

道徳教科化まで待ったなし!

 道徳教育に関心のある方、もっともっと自分の授業力を高めたいと思っている方、一緒にやりませんか! 道徳の授業力を磨くことは、自分自身を磨くことです。ぜひ我々と一緒に、今後の道徳教育について考えていきましょう!

 月に2回程度、土曜日の午後「師道塾」で学んでいます。詳細をお知りになりたい方は、村尾行也(鳥取市立鹿野中学校)までご連絡下さい。

   murao_yk@mailk.torikyo.ed.jp

 お待ちしております。
 

お知らせ

6月は、13日()、27日()の午後2時より、鳥取市教育センターにて行います。
 

師道塾この頃

師道塾この頃
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2020/05/30

5月16日の師道塾

| by 管理者

神渡良平著「安岡正篤の人間学」第6回目です。第三章「運命と立命」から「第二の誕生」まで読みました。

◆「運命と立命」
 自分の身に起こる我々が普段不幸に感じる運命とは宿命のことであり、その人次第でどうにでもなることだと書かれています。この章では「知名」と「立命」について書かれていますが、「知名」について、古典にいつ触れたかが影響しているとの話がありました。その例として、湯川秀樹、北里柴三郎、藤原正彦の例が挙がりました。古典に触れることで、変化に対応できる力、壁にぶつかったときに乗り越えられる力がついていくようです。

◆「無限なる可能性」
 人間の生命についての考え方が述べられていますが、西洋と東洋で共通するものがあるようです。参加者からは、前節の北里柴三郎とのつながりから、神の霊が内に宿るという考えの対極の立場の福沢諭吉の話が挙がりました。福沢諭吉の幼少時代に神社の石を入れ替えるという悪戯をしたというエピソードも有名だそうです。

◆「天を相手とする」
 西郷隆盛の人生の契機となったのが沖永良部での牢獄生活ではないかと参加者からは話が挙がりました。西郷の敬天愛人の思想はここでの生活で至ったという話もあります。過酷な牢獄での生活でしたが、自分の状況を恨まなかったそうです。窮地に立たされたり困難な状況に陥ったりすると、「なんで私が・・・」とつい嘆いてしまうところですが、「随処に主となれば、立処皆真なり」の心でありたいものです。

◆「第二の誕生」
 ここでは、生物学的な人間ではなく、本当の人間として天命に目覚めることを「第二の誕生」と呼んでいます。そのためには、「自己の内面の至上命令」を発見することが大切なようです。参加者の話の中に、最近は何かと手を差し伸べることが多くなっているのではないかという意見がありました。受け身の態度では天命を知るという境地に達することは難しいのでしょう。自分で自分を救うこと、覚悟、気概をもつことが大事だということです。




09:24
2020/03/23

3月21日の師道塾

| by 管理者

神渡良平著「安岡正篤の人間学」第5回目です。第三章「天に棄物なし」から「『地の塩』たる人びと」まで読みました。

◆「天に棄物なし」
 ここでは、「天に棄物なし」いわんや人間においてをやということが述べられています。しかし、「『命』を知らないものであるから、せっかくの人間に生まれて一生を台無しにする。」とも書かれています。「命」を知ることについては次の節で説かれています。ここでの説明に挙げられている「随処に主となれば立処皆真なり」について、竹内先生からは唯我独尊の境地ではないかとのご意見がありました。最終的には悩みを捨て自分を信じ切ること、無視するのではなくこだわらないことが大切だということだそうです。


◆「命を知る」
 「命」を知ることについて言及されている節です。自分の人生に「絶対性」「至上性」を感じることが述べられています。死地に陥った人はそのことに覚醒することがあることも書かれています。読書の話題になった際、竹内先生が幼少期より読んで心に残っているものとして、石童丸やウィリアム・テルの話、「コーカサスのとりこ」などの戦記物が紹介されました。


◆「命を立てる」
 ここでは、「知命」に対して「立命」について書かれています。失敗をポジティブに捉えて大成した例として、以前にも話題になった土光敏夫氏が挙げられています。


◆「『地の塩』たる人びと」
 安岡正篤は有名無力、無名有力ということをよく話されたということですが、それに加え、沈思黙考の大切さが述べられています。


次回の師道塾は、5月16日(土)午後2時から、鳥取市教育センターで行います。


10:18
2020/03/16

3月14日の師道塾

| by 管理者

神渡良平著「安岡正篤の人間学」第4回目です。第二章「人を用いる」から「自ら靖んじ自ら献ず」まで読みました。


◆「人を用いる」
 優れた人物は自分の出世よりも、人の用い方に表れるといいます。「南洲翁遺訓」の一節「廟堂に立ちて大政を為すは天道を行ふものなれば、些とも私を挟みては済まぬもの也。~夫れゆえ真に賢人と認むる以上は直ちに我が職を譲る程ならでは叶はぬものぞ。」に通じるものを感じます。この節では、前回も取り上げられていた「六中観」についても述べられています。その中の「壺中、天有り」の話題となった際、同じく六中観の「忙中、閑有り」と似ていると話がありました。要は心の持ちようが大切だということです。


◆「『論語読みの論語知らず』」
 ここでは本来の「論語読みの論語知らず」の意味ではなく、碩学の安岡正篤にあっても論語を謙虚に学ぶ姿勢が書かれています。先ほどの六中観にある「腹中、書有り」が思い出されます。


◆「天に対する人間の使命」
 天、宇宙と人間の概念について述べられている難解な節です。参加者からは古代ギリシャの時代より人が天体や宇宙の謎を解き明かそうとしていたことに話題が移りました。その中で数字によって天体を表すことを通して、構造を整理、理解していったとの話がありました。


◆「独りを慎む」
 島津斉彬が福井藩主松平春嶽に西郷隆盛のことを話している場面が書かれています。西郷隆盛が郡方書役時代に農民の生活の苦しさなどを知り意見書を出したことから斉彬の目に留まったと話がありました。「人を用いる」の節でもあるように斉彬の慧眼に気づきます。


◆「逆境は人を鍛える」
 先ほどの節より大学の「君子は必ずその独を慎むなり」の意味について述べられています。「『独慎』とは『孤独の自分』ではなく、『絶対的存在の意』と説明されています。この節では「只管打坐」についても述べられていますが、無心になることではなく、気にしない心構えが大切だと話がありました。


◆「君子は必ず自ら反る」
人を責める前に自身の行いを省みることの大切さが説かれています。関連することとして「六然訓」(①自処超然②処人曖然③有事斬然④無事澄然⑤得意淡然⑥失意泰然)が挙げられています。順境にあっても逆境にあっても普段からの心構えが大切ということでしょうか。参加者からは得意の時でも失意の時でも変わらずにいることが大事なのではないかと話がありました。


◆「自ら靖んじ自ら献ず」
 人間学を学ぶものとしてのありようが説かれています。この節では山田方谷のエピソードを挙げて述べられています。同じく佐藤一斎の弟子である佐久間象山との言い争いは大変白熱したとのことです。

次回の師道塾は、3月21日(土)午後2時から、鳥取市教育センターで行います。


10:07
2020/02/26

2月22日の師道塾

| by 管理者

神渡良平著「安岡正篤の人間学」第4回目です。第二章「自己啓発の工夫」から「忘の効用」まで読みました。

 

「自己啓発の工夫」

 精神生活が単調だと精神活動が鈍ることが述べられています。それを解消する工夫として、良い師や良い友を持つこと、読書の2つが挙げられています。参加者からは、日々の仕事に忙しく動き回っていても、それは充実した精神活動とは言えないのではとの意見が出ました。

 

「人物の見分け方」

 この話に関連して安岡正篤が揮毫したという人生訓である「六中観」が述べられています。わかりやすく説明されているものとして、竹内先生から武田鏡村著「図解安岡正篤の行動学」(東洋経済新報社)が紹介されました。

 

「愚・素という人生観」

 愚・素・樸・拙は自分を謙遜する言葉ですが、自戒するという意味もあり、そこに全体性・永遠性が現れるそうです。「素」は木でいうと葉や花ではなく幹となる部分といえるようです。見栄えの良さは外から見える葉や花にありますが、幹は派手さはないけれど揺るがない、枝葉末節に走ることを危惧しています。参加者からは無私の人として、元東芝社長の土光敏夫氏の話が挙がりました。

 

「人徳を磨く秘訣」

 ここでは、人物学を修める秘訣として、人物に学ぶことが説かれています。この師道塾でも、今まで多くの人物や古典が取り上げられてきました。人物に学ぶことの意義を改めて確認するとともに、自身の生き方や授業での活用の仕方を考えることの重要性が考えさせられます。

 

「忘の効用」

 忘れるということは時として、人を艱難辛苦から解放するという面もあるそうです。一方、参加者からは、においの記憶に関しては強く残るという話がありました。脳の構造上、嗅覚と記憶は関連づいている点があるようです。

 

 次回の師道塾は、3月21日(土)午後2時から、鳥取市教育センターで行います。


18:10
2020/02/07

2月1日の師道塾

| by 管理者


2/1(土)
 神渡良平著「安岡正篤の人間学」第3回目です。第一章「運命を拓く」の最後の節から、第二章「人物をつくる」の第6節まで読みました。
 出席した参加者で次のような意見交換をしました。

◆「耳順(したが)う」
 論語の中でも最も有名な言葉とも言える、「子曰く、吾十有五にして学に志す 三十にして立つ 四十にして惑わず 五十にして天命を知る 六十にして耳順う 七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず(為政第二)」から、60歳の部分が取り上げられています。
 耳順(じじゅん)とは、自分が充実し、他を受け入れられるようになること、無我な気持ちで一切に耳を傾ける余裕と素直さを指す、とのことです。
 参加者からは、「自分は60歳になるけれどもとてもとても...」とか「この前に50歳で『天命を知って』おかなければならないとあるが、それさえ難しい」といった意見が出ました。
 一方で「孔子先生の時代は50?60歳で寿命を迎えただろうから、寿命が伸びた現代であれば10歳くらいは後ろにズラして考えてよいかも」という都合のよい(笑)解釈もさせていただきました。
 指導いただいている竹内先生からは「私の年齢になると孔子が言った『心の欲する所に従えども矩を踰えず』の気持ちがわかってくるようだよ」との感想をいただきました。

◆「内面の工夫」
 安岡先生が尊敬していたという中国清朝末期の政治家である曽国藩の心構えを学びました。功名の地位が上がってもますます慎み深く、日々自らを省みながら精進していたようです。早朝は朝日に向かって静坐し、夜は酒色に溺れることを戒めて、外出(宴会)の誘いを断っていたとのこと。
 参加者からは「清末と言えばつい最近のことだが、こんな立派な政治家がいたとはね」という驚きの声が出ていました。

◆「私心を去る」
 昭和11年(1936)に出版された「童心残筆」には、安岡先生の若き日の思索や求道の跡が率直に記されているそうです。後年の松岡先生のイメージからは想像しにくいので、ちょっと読んでみたい気がしますが、現在は神田の古書店でも入手困難と記されています。
 しかし、参加者の一人が試みにスマホで調べてみますと、なんとアマゾンの中古本で安価に出品されているとのこと。便利な世の中になったものです。

◆「知識・見識・胆識」
 大きな仕事をするためには、知識を見識にまで高め、見識が胆識にまでならなければならない、とのこと。知識は「アタマで理解しただけの機械的で薄っぺらな知識、講義を聞いたり本を読むだけでも得られるもの」、見識は「事に当たってこれを解決しようというときに、こうしよう、こうではならぬという判断を生み出すもので、人格や体験が反映されているもの」。
 しかし、この見識だけでは実際に事をなすだけの力に欠ける。評論家ならいざ知らず、実際家には「反対や妨害があっても断固貫き実行する力」である胆識が必要だ、とのことです。
 参加者からは「なんとか見識には行き着けても、胆識までは難しそうだ」との意見が出ました。著者はそういう読者があることを予想していたのでしょうか、「胆識は、道を学び先賢にならおうと切磋琢磨するなかで次第に身につくものだ」と書いて励ましています。

◆有名無力、無名有力
 安岡先生は「君たちは決して有名になろうとしてはいけない。有名は多く無力になる。そうではなく、無名にして有力な人になることを考えなければならない。」と書いておられます。有名なことと力があることをついつい同視しがちですが、そうではないとのこと。
 これを読んで私は、伝教大師・最澄が「国の宝とは何か? それは財宝のことではなく、世の中の片隅でそれぞれの一隅を照らす人のことである」というようなことをおっしゃったことを思い出しました。
 著者の神渡良平さんは、無名有力の見本として「修身教授録」の森信三先生を挙げておられます。修身教授録は、致知出版社が平成元年に復刻して出版して以来、版を50回以上重ねているようです。無名どころか、心ある人々に読み継がれてロングセラー、いまや不朽の名著と言ってよいのではないでしょうか。
 ※致知出版社の特設サイト:https://www.chichi.co.jp/special/shushin/

◆喜神を含む
 ここでいう神は心のこと。「喜神を含む」とは、どんなに苦しいことがあっても、心の奥に喜びを持っていること。
 どんなに嫌なことがあっても、それが自分を練磨するきっかけになる。自分の欠点を自覚し、それを克服しようと努力し修養を積むと、欠点さえ善化されて、懐の深い人物になることができる。人間、良いときもあれば悪いときもある。どういう境遇であれ、それを甘んじて受け入れ、そこから再出発していくことが大切だ、とのことです。
 淮南子にある「塞翁が馬」の故事のようですね。私は若い頃、こんな話は昔の人が説教のために作った寓話だなんて思っていましたが、最近はなんとなく本当にそうだなと思えてきました。

◆日本教と人間学
 日本は無宗教の国だと言われるが、治安の良さ、信用を大事にする国民性など、諸外国に負けない「高度なモラル社会」を実現している。それはどこからきているのか? ヒントになるのは「あの人はできるけれども、人徳がない」という、すべてを人徳や人望に結びつけて評価する物差しを日本人が持っていることだ、とのこと。
 参加者からは「諸外国では宗教的な戒律で人々を縛り付ける必要があったが、日本にはそれが必要なかったということではないか」という意見が出ました。
 指導いただいている竹内先生から、西洋の考え方と東洋の考え方には根本的な大きな違いがあること、日本が外国と交渉するときなどは、日本人の「人の良さ」はかえってつけ込まれる隙になるため、十分に注意しなければならないことを指摘されました。
 高い規範意識と的確な交渉力、人のあり方を学ばせる道徳教育の重要性がますます大きくなっていると言えるかもしれません。

 以上です。次回の師道塾は、2月22日(土)午後2時から、鳥取市教育センターで行います。


17:21
12345

参加者の声

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2015/01/20

師道塾で学ぶ

| by 管理者

 私は、将来の我が国を背負い、世界に羽ばたく誇り高き日本人を育成するためには、教師自らが誇り高き日本人たらねばならないとずっと考え続け、細々と実践を積んでおりました。しかし、個人の力には限界があり、支えあう仲間の存在が欠かせないものです。そんな折、ある会員仲間の紹介で師道塾の存在を知り、月に数回、土曜日の午後2時間程度、足を運ぶこととなりました。

 師道塾では、元鳥取大学教授・竹内善一先生にご指導いただきながら、人物資料の開発やそれらを用いた道徳授業の実践報告、さらには、教師の人間力を高めるための古典の勉強などを行っています。

 毎回の内容は、集まった顔ぶれや提供される話題により様々です。皆、道徳教育の動向にただならぬ関心がありますから、ちょっとした中央の動きがあれば、その話題に花が咲くこともありますが、最近では中国古典の『大学』や、『二宮翁夜話』を輪読しながら学んでいます。昔も今も変わらない真理に唸りながら、皆、元気になります。

 週末に出会う、人物資料とそこで交わされるコメントの数々や古典の中で出会った珠玉の言葉は、確実に我が身に染み入り、糧になっていることを実感しています。そして、学校や地域での教育実践、生徒や同僚教師たちとのコミュニケーションに生かされています。

 師道塾のような自主勉強会の輪が広がっていくことを願ってやみません。

鳥取市立千代南中学校 石谷健二郎 
(日本道徳教育学会報 第36号より) 

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