≪弥生橋≫

鳥取大火(1952年)後の昭和28年3月に架かった橋である。
今では市内循環バス「くるり」が通る橋になっている。

弥生橋が架かっていない頃_昭和22年の写真
<<弥生公園>>

芝生の刈り込まれた弥生公園
この公園は、鳥取大火後に本浄寺の墓地だったところにできたものである。現在では、
風紋広場(駅前)ーパレットとっとり(本通り)-弥生公園(弥生町)-きなんせ広場(智頭
橋詰)を結んだ「集いの広場」としての都市空間を演出している。
<<昭和初期の日進小学校の講堂>>

当時は山白川が小学校のすぐ横を流れていた。
この作品は故濱崎道治氏が子どものころの記憶を絵にしたものであり、本校90周年(平成11年)の時に寄贈されたものである。
濱﨑氏の子どもの頃の記憶を絵で表現した作品集
書名 | 著者名 | |
記憶の鳥取 ~昭和初期の鳥取のまちなみ~ | 濱崎道治 著 吉田幹男 編 | |
<<一本橋>>

木一本を渡したものから板を並べた橋、そして欄干橋に替わった。関ヶ原の戦いで東軍だった亀井茲矩(かめいこれのり)が一本橋からサイノカミ(現在の前田神社)を結んだあたりに陣を張って鳥取城明け渡しを求めたと伝えられている。
参考文献
「鳥取県の地名」日本歴史地名大系32 亀井茲矩をモデルにした時代小説
「鳥取案内(復刻版)」郷土シリーズ(三) 「琉球は夢にて候」岩井三四二
<<本浄寺(弥生町)>>
鳥取藩の剣術の主流となった雖井蛙流(せいありゅう)を考案した深尾角馬(ふかおかくま)の墓が山門をくぐってまっすぐやや右奥にある。
深尾角馬がモデルの時代小説
作品名 | 著者名 |
深尾くれない | 宇江佐真理 |
狐斬り | 司馬遼太郎 |
また、納骨堂には、鳥取県再置運動で活躍した足立長郷(あだちちょうごう)が葬られている。
足立長郷の活躍を伝える作品
作品名 | 著者名 |
暴れ勘四郎 | 仲市 實 |
鳥取県再置秘史 | 吉村撫骨 |
<<猿塚(末広公園にある塚)>>
地元の古老語る、
「岡山から鳥取にお殿様がお国替えになったころの話。家来がお殿様のおつかいで大阪にいく途中、疲れて休んでいたところに猿がやって来て、家来の弁当をとって逃げて、食べてしまった。家来は怒って、猿をやっつけてしまったそうな。」
やられた猿をかわいそうに思った村人が、小さな塚をつくって供養したのがこの猿塚だそうです。
<<鳥取温泉の碑(吉方温泉2丁目)>>

鳥取温泉碑には下記のように記してあります。
鳥取温泉は明治三十七年十一月この地に住む池内源六翁が井戸掘さく中、突如温泉の湧出した事に始まる翌三十八年五月、翁によって公衆浴場高砂温泉が創設されるやひき続き温泉旅館等軒を並べ市民はもとより近郊の人々の慰楽の地となったがその後大正末期から昭和のはじめにかけて泉源は更に隣接地末広方面に次々と発見されるに至り今日では街に湯の湧く観光鳥取として大きく躍進する所となったこれは翁の温泉発掘に基因するところでありその偉徳を永久に顕彰すると共にこの地を鳥取温泉発祥の地として記念するものである
昭和三十六年八月